新撰組といえば、主だった名前が出てくるくらいには知っていました。人気があるんだなあというくらいの認識で、特に思い入れはない歴史の知識として。
この本は「笑い三年、泣き三月。」で大好きになった木内昇さんの本がなにか読みたくて手にとり、たまたまに新撰組のお話だったのです。

それが、もう読んでいる途中から、まるでむかしからの新撰組ファンのように登場人物たちに魅了されっぱなし。近藤勇、土方歳三に沖田総司、永倉新八、斎藤一・・・・みんなにそれぞれにのめり込みました。
この小説の少し変わった構成が、そうさせた理由なのではないかと思います。
土方歳三からはじまり新撰組のメンバーとその関係者16名が入れ替わり立ち替わり物語を進めていきます。同じ新撰組というものに身を置きながらも、それぞれに目指すものがあり、違うことを考えている。だれが語る章であっても、その眼がみるもの感じるもの考えていることを丁寧に描き出します。一つの出来事でもまったく対局の視線があったり、同じ人物に対しても尊敬だったり信頼だったり批判だったり猜疑だったり。
これだけ多くの視点で物語をすすめながらも読んでいて混乱することはないのがすごいところで、なんの破綻もなくむしろ新撰組という組織やその人物たちを息遣いをかんじるような確かな存在として重層的に書き出していきます。そうして知る歴史上の人物たちは、みなそれぞれに大きな夢を抱えて自分の行き先を信じた若者たちで、ただその激動の時代にいたというだけのごく普通の人間なのでした。
物語のなかの台詞で、この小説のことをよく現しているものがあります。「どうも人間というものは厄介だ。ひとりの人物に凄まじい数の尾鰭がついている。ひとつの方向だけから見ていると、とんだ見当違いをする。」

歴史小説というのは史実に基づいているので、ストーリーの思わぬ展開を楽しんだりはできません。
それだけに明らかになっている事実の隙間を埋める日常の深さが面白さを左右する。
史実に基づいてはいるけれど、フィクション。それはあたりまえのことだけれど、この物語のなかの新撰組のみんなが過去に生きていたそのままの姿のように思えます。そして普通の台詞ひとつひとつが心に残ります。名言が多いと感じるのは木内昇さんの小説の特徴なのかもしれなくて、それはそこだけ抜き出しただけだとなんでもない言葉なんだけれど、そこに付随する描写された人たちの細部が言葉を奥行き深いものに変えるのです。

わたしはすっかり新撰組にはまりこんでしまって、他の小説も読んでみたいし、歴史ももっとちゃんと理解したい気持ちでいっぱい。でもこの先いろんな形で新撰組の歴史人物像にふれても、きっとこの本で知った彼らがわたしにとっての新撰組で在り続けるような気がしています。


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2013年3月19日更新
『新撰組 幕末の青嵐』 木内昇

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